第6回 対馬 貞治さん

対馬さんがバイオリンと出合ったのは13歳の時、音楽の成績を心配したお父様がバイオリンを買ってくれたのである。価格は30円。当時としては大金である。お父様の気持ちを察した対馬さんは熱心に練習をして音楽の楽しさを知った。勿論、音楽の成績も上がった。戦時中の学徒動員先にもこっそり持ち込んで弾いた。バイオリンの音色は心を癒してくれた。しかし、このバイオリンとやがて別れることになる。
徳島工業専門学校(現在の徳島大学工学部)での学生時代、ご両親が病のため仕送りが途絶え下宿代が払えなくなってしまったのだ。大家さんは「うちの息子の勉強をみてくれたらそれで結構、心配するな」と言ってくれた。卒業して下宿を出るとき、多少の補いになればと大切にしてきたバイオリンを置いてきた。息子さんにバイオリンも教えていたのである。
卒業後は高校の数学教師となるが、お母様を亡くし、お父様を看病し、バイオリンを買うお金はなかった。バイオリンを弾きたい、また練習がしたい。そうだ! 練習できるだけのものなら自分でも作れるのではないか?
友人の材木屋からメープルに木目の似た栃の木と柾目の栂の木の板を貰い、道具は鋸と鉋とナイフぐらい。丸のみ1本を買い足して作り始めた。ガラス板を割り、スクレーパにして削った。こうして昭和25年、新たな心の支えとなるバイオリン第一作が誕生したのであった。2作目、3作目、4作目と改良を重ねた。ちょうど徳島に赴任していた当会先輩の野田修次さんを訪ね、作品を見せてもらったが、その形の美しさ、音の良さに衝撃を受け、さらにバイオリン作りに情熱を掻き立てられたのであった。
もともと理系の人間、物を作るのに怖いものは無い。材料は桜や楠、桐や竹、ラワンでも作った。桐のまな板は寸法もちょうど良く、安い。ウイスキーを熟成させた樽材は曲げやすく、気のせいか音に味があった。ペグもテールピースも自分で削り出し、食べたアワビの殻は捨てずにハルダンゲルバイオリンの装飾に使った。(この複雑難解な楽器を雑誌の写真から作ってしまったというのだから驚きである)

現在までに製作したバイオリンは80台以上、5センチのミニバイオリンからビオラ、チェロまで、自作した弦楽器がずらりと並ぶ。「作品を親しい方に差し上げたことはあっても、売ったことはない。売って欲しいと言われたことは何度もあるが、一つひとつが自分の子どものようで手放せないのです」と語る。
「唯、バイオリンが大好き、工作が好き、父に勧められて習ったバイオリンは生涯の伴侶のようなものとなってしまいました。買ってもらったバイオリンは自分の弟のようであった下宿の息子さんに差し上げてしまったが、今ではその何十倍ものバイオリンになって還ってきたと思えてならないのです」と語る。
定年退職後も毎日バイオリンを作り続け、まもなく85歳になられるが、「春の作品展示会」には香川県さぬき市から家族の皆様のリレーで駆けつけて下さる。

「対馬さんにとってVSJとは?」とお聞きすると「勉強の場でもあるし、生きがいの場でもあります。明日館がとても好きです。お客様がさらに増えて1000人くらい来てくれるようになって欲しい」との言葉を頂いた。製作で使い過ぎた指は曲がり、痛みもあるが、作品が完成したときに音出しに弾く曲は必ず、お父様との想い出の曲「浜辺の歌」である。

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